こんにちわ、きのした歯科クリニック院長の木下浩二です。

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新規開業してからはや1か月半が過ぎ、少し落ち着いたかなという感じです。クリニック紹介のページで大学時代からの院長経歴を載せていますが、大学入学までの経歴や、社会人になってからの経歴などについて少しお話させていただきたいと思います。
まずは、大学卒業までのつまらないお話です。
私は、1967年2月24日醍醐で生まれました。3歳から小学1年生の6月まで、父親の仕事の都合で、愛知県岡崎市で過ごし、その後また醍醐で住居を構えるようになり、春日野小学校に転校することとなりました。小学5年生からサッカーを始めて、醍醐中学に入学してからもサッカー部に所属し、最終学年時にはキャプテンを務めさせていただきました。チームをまとめていくには大変でしたが、今となってはいい思い出です。
そして、高校進学の時期になった時、私は建築家になりたく、伏見工業高校(伏工)建築科への進学を希望し、中学3年生の夏休みには伏工まで、いまでいうオープンキャンパスに行き、さらに進学を強く希望したのを覚えております。ところが、12月の進路最終決定の際に(いわゆる3者面談)、担任の先生から、とりあえず普通科に進学し、3年間ゆっくり考えてから、それでも建築家になりたければ工業大学への進学などの選択肢もあるとのアドバイスを受け、東宇治高校を受験することとなりました。しかし、その年に、日野小学校が開校したため実家の前の道で学区制が区切られ、東稜高校に入学するというハプニングがありました。高校入学後、サッカー部に入部し、日々練習に勤しんでいましたが、いろいろありまして、1年生で退部することとなりました。
中学生のころより、兄の影響でギターを弾くようになり、退部後は、音楽好きの仲間とバンドを結成しボーカリストとしてライブハウスや学祭などに出演しておりました。そうこうしている間に、高校3年間はアッという間に過ぎ、いざ大学進学の時期が迫ってきたころ、自分将来について考えるようになり、漠然とでしたが、医療関係に興味を持ちはじめ、こんな自分でも人の役に立てればいいかなと思いはじめました。ただ、勉強もせず、遊び呆けたつけがたまり、浪人生活へと突入いたしました。1年間は予備校に通わせていただきましたが、遊び癖が治らず、受験に失敗。その後はアルバイトなどして小遣いを稼ぎ、いわゆるぷー太郎でしたが、4年目の夏ごろに、一切のアルバイトをやめ、歯学部をめざし、最低でも人が働いている時間は勉強しようと奮起し受験勉強を再開しました。なんとか、九州大学、北海道大学に合格し、晴れて大学生活への一歩を踏み出したわけです。
大学入学後、1年上のかわいらしい先輩からテニス部の勧誘を受け、鼻の下が長くなった私は2つ返事でOKしてしまいました。しかし、その翌日最初に仲良くなった友人と昼ごはんを食べているときです、事件が起きてしまったのです。
その友人は宮崎県の出身でこよなくサッカーを愛していたようですが、通学していた小学校、中学校にサッカー部がなく、大学に入ったらサッカー部に入部しようと決めていたようです。その当時、歯学部サッカー部は部員も少なく、弱体チームであることも知っていたようで、未経験者の彼は、自分が入部して強くしたい、と熱い思いを語ってくれました。感動した私は、学食に居合わせたかわいらしい先輩のところにその場でかけより、テニス部の入部を撤回しますと言ってしまったのです。
新入部員は私を含めて4人でしたが、それでも全部員は12,3人だったと思います。それから部員が徐々に増えていき、3年生時、福岡県での大会で3位、5年生時、新潟県で3位、6年生時(レギュラーではなかったですが)、北海道での大会で優勝いたしました。北海道での大会が終了後、同期4人は思いつきでレンタカーを借り、4人がそれぞれ行きたいところを選択し、できるだけ無駄がないよう計画をたて、3泊4日全走行距離1200Kmの北海道旅行を楽しみました。ちなみに私は「北の国から」で有名な黒板五郎の家を希望しました。またもや感動してしまいました。
6年生の夏も終わり、さて、就職活動時期がやってまいりました。当初は母校の第二口腔外科に入局しようと考えておりましたが(同期の3人は入局しましたが)、やはり、京都が懐かしくなったのか、京都大学病院の口腔外科に入局しようと思い、サッカー部2年先輩で入局されているK先生に相談したところ、「ここの医局には、お前みたいなガッツのある人間が必要なんや、お前なら大丈夫」と声をかけていただき入局を希望しました。ただ、入局試験が2月でしたので、不合格の場合は行くところがなかったのが実状で、ほんとに合格してよかったです。
無事ストレートで大学を卒業し、いざ研修医としての生活がスタートしました。
続きは次回へ