こんにちわ

当院のホームページにアクセスしていただきましてありがあとうございます。遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。今回は、豊岡時代のお話です。

平成9年1月末ごろに京都から豊岡に引っ越しをしました。引っ越しといっても段ボール5つていどの荷物でしたが・・・。電化製品はほとんど持っていませんでしたので、貯金をはたき、京都の量販店でとりあえずテレビと洗濯機を購入し、豊岡に輸送していただく手配をしました。ここで大きなミスをしてしまいました。1月の豊岡は町中雪景色で夜ともなるとかなり冷え込むのでした。さらにコンクリート造りの官舎は2DKと広く、クーラーも冷暖房用と思いきや、冷房のみでがっくり。一人用のこたつと電気ストーブは持って行ったのですが、とてもとてもおいつかなく、寒い一夜を過ごすこととなりました。次の日、早速石油ストーブを買いに出かけましたが、預金通帳の数字がさらに小さくなってしまいました。また、いろいろな手続きのため病院へ挨拶にいきましたが、前任の先生もすでにおられなくなっており、かなり忙しそうでした。そして、医長から、明日から出勤するようにと言われ、辞令を待たずに勤務することとなりました。豊岡病院は口腔外科を専門としていましたので、いわゆる歯周病やむし歯治療などは開業医の先生にお任せし、腫瘍や難治症例などをご紹介いただくといった連携体制をとっていました。
外来経験がほとんどなかったこともあって、赴任当初はさすがに少しびびってしまいました。患者さんの体には毎日のように注射をしてきましたが、口の中の麻酔の注射は本当に久ぶりでしたので注射器をもった手が震えていたのを覚えています。そんな医者に注射をうたれる患者さんにとってはとても不安だったでしょうけど。
入院患者さんも常時10人以上はおられたので、外来診察、病棟回診、手術と忙しい毎日を過ごしておりました。また、脳神経外科と共有の病棟でしたので、土日曜日の当番の日の昼食はよく脳神経外科の先生たちと食べに行ったものです。
入院患者さんの中には、悪性腫瘍(口腔癌)の患者さんもおられ、手術には大学から非常勤講師として腫瘍専門医が前日から豊岡入りし、常勤3名とあわせて4人で対応しておりました。その先生は本当にすばらしい先生で、同門の先生のだれもが思っていますが、小生のあこがれの先生でした。飲みに行くと、「医者は、ハートが大事なんや」といつもおっしゃっていて、その言葉にいつも私は「そのハートとは何ですが?」と問いかけていました。二人とも酔っぱらっていましたので、周りからみればただの押し問答だったそうです。
残念ながらその答えを聞かないまま4年ほど前にご病気で他界されました。今となって、その答えは、自分で見つけなければいけないとの教えだったのかもしれません。
そうこうしている間に、赴任した年の11月に人生の大イベント、そう、結婚式を京都で挙げたのでした。ただ、相手の仕事の都合上、翌年の3月までは別居状態でしたが。
独身用官舎から引っ越しをしなければいけなかったのですが、官舎の戸数が足りなかったようで、築5,60年?は経っているような官舎を改築して住んで下さいとのことで、しぶしぶ承諾し、新婚生活が始まりました。しかし、お腹の中にはすでに新しい命が宿っており、引っ越しの片づけやいろいろな手続き、出産準備などで忙しく、いわゆるあまーい新婚生活はなかったように思います。さらに、その古い官舎は、シロアリに侵されるは、壁の間から草が伸びてくるはで大変でした。お向かえにお住いのご婦人曰く、「あたしが40年前に嫁いで来たときからすでに古かった」と。築何年経ってんねん。
そして、7月30日予定より2週間はやかったですが、2700gの元気な女の子が生まれました。出産に立ち会いましたが、言葉にできない感動がありました。
仕事にも、豊岡での生活にも慣れてきて、順風満帆に木下家の船は進んでいました。しかし、ちょうど2年が過ぎようとした冬のある日、教授からの1本の電話がありました。
私より1年早く赴任されていた先生がいましたので、まさか、赴任の話とは思わなかったのですが、なんと、受話器から聞こえてきたのは、「豊岡病院で十分に研修したであろうから、4月から舞鶴市民病院でがんばってくれないか。」と、なんと辞令だったのです。医長に報告すると、ここの病院がいやで教授に赴任希望をだしたのかと怒られ、いやいや、ぺいぺいだった私は、まだまだやりたいことがたくさん残っており、いれるだけいたかったと釈明したものでした。後で聞いたのですが、私が医長の厳しい指導に耐えかねて、赴任希望をだしたのではと誤解していたようです。
いろんな人から、送別会をしていただき、お酒で涙腺がゆるんでいましたが、悔し涙をぐっとこらえて挨拶をしたのを覚えています。
2年2か月の豊岡での生活にピリオドを打ち、いざ、舞鶴へ
続きは次回へ